はつ花創成期――手探りの始まり

  時は大正14年、小宮義一24歳。勤めていた洋品店が潰れてしまった。14の歳で奉公にやってきた店だった。故郷の箱根に舞い戻り、はてどうしたものかと考える。
  さてこんな田舎町では洋品店はやっていけぬ。義一、何を成そうかと考えつつ、ある日、小田原へと下ってきた。
  そこで出会った店がひとつ。大入り満員の蕎麦屋であった。義一、これを食べて思う。「これなら俺にも作れるんじゃあないか」当時箱根に蕎麦屋はなく、義一はついに開業へと踏み切った。

  横浜の蕎麦屋へ修行に行くも、運悪くかっけに侵され、1週間で出戻った。だがそこでめげないこの男、横浜の職人からありったけの技を教わって書き記し、箱根で養生しながら蕎麦の修行に励んだ。
  退職金で古道具を買いそろえ、職人をやとって、早川にかかる橋のたもとに店を構えた。

 
Origin of “Hatsuhana” established in 1934 is from the heroine “Hatsuhana” in Joruri “Hakonereigen’ izarinoadauchi” which is a traditional narrative ballad set in Hakone.

She is a devoted virtuous woman and She supplicated in meditation by sitting under a water fall for her husband who was lame and dug nutrient Japanese yam.

In addition, “Hatsuhana” is used as the name for the tea pot and as seasonal word in Haiku, it is popular in the history. 
昭和9年(1934年)
11月14日、初代店主小宮義一と妻テルにより、現本店の場所に、はつ花そばを創業
昭和18年(1943年)
小宮義一出征により、はつ花そばを一時休業
昭和20年代
終戦後、店を再開。自然薯を練りこんだ「新しい蕎麦」を完成させる
昭和51年(1976年)
箱根湯本、弥栄橋際に新館がオープンする
平成2年(1990年)
小宮憲二が二代目店主となる
平成14年(2002年)
本店をリニューアルオープン

貞女「はつ花」

「橋のたもとだから、橋本屋でどうだ」
「橋元(はしげん)なんかもいいんじゃないか」
 義一の父、仁三郎のもとに集まった、友人の櫻木倉太郎や旅館古河屋の主人ら、湯本の仲間が寄り合って、みんなして義一の店の屋号を考える。ああでもないこうでもない、話し合いは長いこと続いた。
  そこにこの辺りではひときはハイカラな、当時においてカメラなどという洒落た道楽をもった男、倉太郎が一声。
「初花ってのはどうだ」

浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』

  浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』にも描かれた、貞女初花。初花は夫・飯沼勝五郎と供に、ここ箱根の鎖雲寺境内に眠っているそうだ。

  時は慶長(1596年~1615年)。剣術指南役であった父を闇討ちにかけられた勝五郎は、仇である佐藤兄弟を追って旅をしていた。江戸まで登って行方を捜し、果ては仙台へ。だが佐藤兄弟の足取りはそこで途絶え、手詰まりとなった勝五郎は、とある道場へ身を寄せる。九十九新左衛門の剣術道場。ここで剣の腕を磨きつつ、佐藤兄弟を探すのだ。
  九十九の道場には美しい娘がいた。仙台小町と名高い美女・初花。いつしか初花と勝五郎は恋に落ち、やがて夫婦となった。
  だが仇の旅の道中である勝五郎。佐藤兄弟の足取りをつかみ、大阪へ向かうという。初花は、慣れ親しんだ仙台に別れを告げ、勝五郎との仇討ちの道行きに身を投じたのであった。
  またも不幸が勝五郎を襲う。病に蝕まれ、勝五郎は腰から下の動かぬ体となってしまったのだ。初花は夫を手押し車に乗せ、仇討ちの旅を続ける。女の足で野を越え山を越え、それは過酷な道行であった。
  途中和歌山の湯治場で、勝五郎は病の養生をした。そこで枕元に立ちしは不動明王。曰く、「箱根の湯に参れ」。夫婦はお告げに従って、箱根の山へと足を向けた。
  険しい山道を登りきり、箱根へ辿りついた勝五郎と初花。初花は勝五郎の湯を世話し、神社で祈り、滝に打たれて祈り暮らした。食い物がなければ山に入り、山菜などを探してさ迷う日々。そんな折、初花は地面に掘られた大きな穴を見つける。
  猪が掘ったのであろうその穴の底には、かじった歯形も残る太い山芋が植わっていた。猪がこれほど執心する山芋ならと掘って食ってみれば、腹は満たされ力がわく。
  初花はやがて葉を見てその山芋のありかを見分けられるようになり、掘っては夫に与えた。初花が手にしたこれこそが、箱根の自然薯である。
  幾年月が過ぎたことか。箱根の街道にて、初花・勝五郎はついに佐藤兄弟と合いまみえる。が、勝五郎は未だ足腰立たず。この好機を見逃すか、と歯軋りかみ締める夫を横に、初花は脇差しを抜き放った。
  待たれい、我はお主らに討たれし飯沼三佐衛門が子、勝五郎が妻、初花なり。三佐衛門の仇、いざお命頂戴。
  夫の思いを遂げんと挑んだ初花。しかし、あわれ佐藤兄弟の刃に倒れ、花と散る。それを目前に、勝五郎は立ち上がった。
  そう、文字通り立ち上がったのだ。
  箱根権現の霊験と初花の献身、そして初花への思いが勝五郎の足を癒した。勝五郎はその刃に佐藤兄弟を見事伏してみせ、本懐を遂げたのであった。
「浄瑠璃にあやかるってのも洒落ているねえ」
 貞女、初花。優しく強き女、初花。はつ花。
 勝五郎が守れなんだなら、夫思いのかわいい妻を、俺がずうっと守ってやろうじゃないか。俺が頑張れば、俺の「はつ花」をもっと幸せにしてやれる。商売繁盛、福は内。
「はつ花」と二人三脚、やっていってやろうじゃないか。

  蕎麦処「はつ花」の誕生であった。
季語「初花」

初花の ひらけはじむる 梢より
そばへて風の わたるなりけり
西行法師(1118年~1190年)

花や月をこよなく愛した流浪の大歌人。「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」の歌は聞き覚えのある方も多いのではないだろうか。武士の名家に生まれ、若い時分から和歌と武芸に秀でており将来を期待されていたが、23歳で突如出家。旅から旅へ、漂白しつつ多くの和歌を詠み遺した。松尾芭蕉や高杉晋作も西行をの歌を尊敬していたとか。

この寝ぬる 朝けの風に かをるなり
軒ばの梅の 春のはつ花
源実朝(1192年~1219年)

鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男であり、鎌倉幕府三代征夷大将軍、そして歌人。若くして和歌の大家である藤原定家に師事し、独自の歌風で名歌を残したが、27歳の若さでこの世を去った。後に遺した歌が評価され、正岡子規をして「あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。」と惜しまれた。
茶器「初花」
その姿かたち、妙なる色合いの優美婉麗たること。春の先駆けする初番の名花にも似たり。曰く、茶入れ「初花」の名付け親たる室町幕府8代将軍・足利義政。(諸説あり)
茶入れ「初花」は、楢柴肩衝・新田肩衝と並んで天下三肩衝(てんかさんかたつき)と呼ばれる名品である。
中国の南宋(1127年~1279年)または元時代(1271年~1368年)の作と推定され、戦国時代(1467年~1590年)に日本に渡来し、文化人として名高く東山文化を築いた足利義政に見いだされ、「大名物(おおめいぶつ)」(利休時代以前、特に東山時代に名を得た優れた茶器のこと)とされた。
その後「初花」を手にしたのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、何れも時の天下人。
さらに時は下って江戸時代、「初花」は松平備前守より元禄11年に将軍綱吉へと進上される。以後德川宗家の重宝として伝来し、柳営御物(徳川将軍家の名物茶道具)第一の名宝として珍重された。
歴史を動かす大人物たちを惹きつけてやまない。「初花」はそんな茶入れなのである。

ところで実は初花と同じ大名物に「九十九髪茄子」という茶器がある。箱根霊験記の初花の父の名も九十九新左衛門……なにやら曰くがあるやもしれない。

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